「なね汝が命」

フランス語で「mon amie(モナミ)」は、親愛の情を込めて相手を呼ぶ場合に使われるそうですが、似たような意味の言葉が古事記にもありました。

それが「なね」です(原文では「那泥」)

 

「な」は一人称代名詞、つまり「わたし」。

「ね」は親しみを表す接尾語。

 

前のエントリにも書いた、神武天皇の皇子(みこ)、神八井耳命とその弟神沼河耳命は、神武天皇崩御後、庶兄である当芸志美美命(たぎしみみのみこと)に殺されそうになってしまいます。

当芸志美美命の后になっていた母伊須気余理比売の機転によって、そのことを察知したふたりは、先手を取って当芸志美美命を殺そうとします。

そのとき、

神沼河耳命、その兄(いろせ)神八井耳命にまをしたまはく、「なね汝が命、兵(つはもの)を持ちて入りて、当芸志美美命を殺せたまへ」とまをしたまひき。

弟が兄に向かって、「兄上さま、お殺しなさいませ」と言うわけですね。

このあと、おじけづいた兄のほうは、当芸志美美命を殺すことができず、その様子を見かねた弟が結局当芸志美美命を殺すのですが。

 

古事記に「汝が命」と呼びかけている文はいくつもあれど、「なね汝が命」とあるのは(たぶん)ここだけなので、同母の兄弟の絆を想像しておもしろいとおもいます(^^)

 

この時代、父母は一緒の家に住んでいなかったため、異母兄弟は、兄弟というよりもいとこに近い間柄だったようです(わたしの想像ですが^^;)

 

この皇子たちの父である神武天皇も、仲の良い同母兄がいました。

しかし、その五瀬命は、東征の途中で敵の矢で受けた傷がもとで、亡くなってしまいます。

古事記や書紀は、皇位についた者の立場から書かれていますから実際のところはどうだかわかりませんが(神話・伝説ですし)、読んでいるだけでは、兄が弟のために命を投げ打っているようにみえます(^^;

 

 

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父の妻を子が娶る

古事記を読んでいてびっくりしたことに、天皇(大王)の子が、天皇亡きあと、その皇后(大后)を娶る、というのがあります。

所見の範囲では、子は次期天皇ではないようです。 *1

たとえば、

 

神武天皇の子、当芸志美美命(たぎしみみのみこと)は、神武天皇大后であった伊須気余理比売(いすけよりひめ)を妻にしています。

当芸志美美命の母は日向国生まれの娘。つまり当芸志美美命は日向時代の子。

伊須気余理比売は神武天皇が大和に入ったのちに娶った大后ですから、生まれた子が正当な次期皇位継承者となり、当芸志美美命は、次期天皇の「庶兄(まませ)」になります。

 

古事記には、「当芸志美美命、その大后伊須気余理比売に娶(あ)へる時に、その三柱の弟(おとみこ)たちを殺せむとして」とあるので、次期天皇綏靖天皇の即位まえ、伊須気余理比売は当芸志美美命の妻であったとかんがえられます。

 

ちなみに書紀には、この記述はありません。
おそらく、儒教的な倫理観の、義理であっても近親婚は忌むべきという立場から、排除したのでしょう(にしては、母のちがう兄弟姉妹間の婚姻はOKだった←あまりにフツーすぎてタブーという感覚がなかったもよう)

この風習、遊牧民族では氏族維持の観念から一般的だったようなので、古代日本でも北方系の習慣が根強くあったとおもわれます。

 

しかし、厳として「娶(あ)へるときに」と書いてあるので、もしかしたら、神武天皇の後継者は当芸志美美命だったのではないかという推測も成り立ちます。
力の強い年長の兄が、まだ若輩の弟を従えるというのは、ありそうな話です。

その後、大后の子だった綏靖天皇が反旗をひるがえして皇位を奪いとった、というのが素直な「読み」のような気がします。

 

*1:書紀にも「庶母を娶」った天皇がいました。開化天皇です。父の妃を自分の皇后にしています。よって、開化天皇の子崇神天皇は、その母が父の皇后であり、祖父の妃だったことになります。儒教的にアウトだったのか、記述は本文に小さく「庶母なり」とアッサリしています

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神功皇后

神功皇后仲哀天皇の皇后(きさき)ですが、日本書紀を読むかぎり、あきらかに「天皇」のあつかいです。
書紀編者は、魏志倭人伝卑弥呼神功皇后とみなして、摂政年紀を定めています。
他の天皇の記載と比べてみても、単なる皇后だったとはおもえません。

そして、記述のメインは新羅征伐ですが、神功皇后が非常に勇ましく立派に描かれてます。
古事記の倭建命よりカッコいいかもしれません。

神功皇后の名は、「気長足姫尊」(おきながたらしひめのみこと)。
当時中国の正史では7世紀初頭の天皇(スメラミコト)を「タラシヒコ」と記したことから、日本では当時皇位にある者を「タラシヒコ」と呼び習わしたらしいと、注釈にありました。
つまり女性の皇位継承者が「タラシヒメ」、つまり神功皇后は実質皇位にあったと書紀編纂者はかんがえていた、とおもわれます。


開化天皇のひ孫の子の娘なので、系譜上は天皇家の血を引いています。
しかし、開化天皇自体の実在性が疑問視されるため、神功皇后奈良時代の女帝のような皇位継承権(父系で天皇家の血を引いている)があったとは、ちょっとかんがえにくいです。

そのため、父系で貫かれる皇位継承者にはできなかったのかもしれません。

 

子どもの応神天皇は、実在性が確実視されています。

その応神天皇の出生について、書紀を読んだだけでも、素直に父仲哀天皇だとはおもえません。

仲哀天皇九年二月に、天皇崩御。九月に産月となり皇后鎮懐石を腰に纏う。十二月に応神生誕。

鎮懐石の効果は絶大のようですが、応神の父はたぶん仲哀天皇ではないでしょう。
皇后の側近・武内宿禰だとする説もあるようです。

 

とすると、応神天皇が自分の皇位にハクづけするために、母の系譜を皇統に結びつけたとする説も浮かんできます。

いずれにせよ、神功皇后応神天皇の世代で、皇位継承に劇的な変化があったとかんがえるのが妥当です。

 

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2、4、8を重んじる日本人

今まで参考程度に買っておいた『日本書紀』を、あらためて最初から読んでいます。

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

 

岩波文庫の『日本書紀』訓読版です(1巻ごと巻末に原文あり)
訓読の注以外にも補注が充実していて、上代日本語や日本神話(から派生してポリネシア系アジア系など世界の神話もろもろ)についての解説がとてもおもしろいです。
そのなかで、数字に関する興味深い記載があったので、要約しておきます。

日本人は、2、4、8を尊重する

中国から漢字や文献が伝わるまえ、古代日本では、2、4が神聖な数とされていました。
2は一揃いを重んじることから。1や3は半端とかんがえられていたようです。

4、四は大和言葉で「よ」です(上代の発音はyö)
「yö」は、同時に、数量の無限増大を表すイヨ(愈々のイヨ)とおなじ言葉。
よって、日本では4が最大数だった時代があり、4を神聖ししたということです。*1

そして、日本語には、i-u、ö-aの交替が見られるので、yö→yaとなり、8も無限を表す聖数と認められるようになったとか。
8、八を末広がりとして験を担ぐ習慣は、漢字が入ってからのちの時代に後づけでおこなわれたものであろうということです。

この文庫の校注には大野晋が参加しているため、このあたりの考察が非常に丁寧です。

日本人のほかにも、2、4、8を重んじる民族としては、アメリカ・インディアン(ナファ族)、イースター島に住んだひとたちがあるようです。
言葉や神話の面からかんがえると、日本は南方の文化・文明の影響を非常に強く受けているみたいですね。

わたし自身は奇数がスキなので、「げ、自分、中華かぶれか」とちょっとテンション下がりましたけど^^;

*1:注 その民族によって、最大数(かぞえられるもっとも大きい数)が大体決まっていて、ギリシャは3以上はかぞえなかったので、3が究極の数であり、よって3を聖数としていたそうです

白髪皇子

漢風諡号清寧天皇
雄略天皇の第三皇子で、生まれながらにして髪が白かったので、白髪(しらか)の皇子(みこ)と呼ばれました。
母は葛城の韓媛(からひめ)で、雄略天皇の妃です。

皇后に子がいなかったので、母の身分が高い皇子は有力な皇位継承者でした。

よって、自動的に次期天皇・太子(ひつぎのみこ)になることが見込まれた皇子なのですが、日本書紀を読んでいると、どうもこの皇子に「幸薄すぎる」感が漂っています。

 

まず、即位して5年も経たないうちに崩御
雄略天皇の治世が、古代にしては長かったので(23年ほど)、そのあとの天皇なら短期もありうる。
でも、生まれたのがおそらく雄略天皇が即位してまもなくのころと推察されるため、30歳を待たずして亡くなったとかんがえられます*1

 

天皇には、その髪の色のせいで(おそらくアルビノ)「霊異(くしびにあやし)」とおもわれてます。単に畏怖されただけじゃなくて、遠ざけられたのではないかと。
雄略天皇自身は、その諡号に恥じない勇猛な人間だったから、真反対の息子は忌避されますよね、普通は。

 

その雄略天皇っていうのが、父允恭天皇が亡くなった直後から、ライバルとなる皇位継承者を続々殺し、敵対する豪族も滅ぼして(妃の出身葛城氏・白髪皇子の祖父)、皇位についてます。
皇位についてからも、このひとはどうも怒りっぽいというか、臣下が気に入らないと難癖をつけて殺していて、「悪いスメラミコト」と天下に言われたり。
雄略天皇を恨んで死んでいった人間数知れず、といったかんじ。

 

その因果か、好色な天皇だったにもかかわらず、子どもが少なく、男は3人しかいません。
白髪皇子・清寧天皇に至っては、「子なし」で皇女(ひめみこ)すらいない。

天皇がめぼしい皇族を殺しまくってしまったので、皇位を継がせる皇子、王(おおきみ)が大和に見当たらなくなるという始末に。
清寧天皇の宮は、信頼できる人間がおらず、さびし〜い宮だったのではないかと想像します。

 

父が惨殺した市辺押磐皇子の皇子ふたりは、庶民に身を落として播磨にいました。
それを必死でさがして、ようやく太子に迎えたのですが、どういう心境だったのかなあとおもっちゃいました。

 

*1:

 母の韓媛(からひめ)は、雄略天皇が即位する前からの妃。白髪皇子はその第一子。よって、雄略天皇崩御時には30歳を超えていたかもしれません。ただ、雄略天皇即位前紀には、葛城大臣が滅ぼされるときに「娘韓媛と邸宅を差し出すので許してください」と懇願していますから(雄略天皇は当然聞く耳持たず)、その後に生まれたという推測も成り立ちます

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