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ginka blog

創作サイトのネタblog

武内宿禰

日本書紀を通読しています。

景行天皇あたりになると何代にもわたって登場するのが、武内宿禰(たけしうちのすくね)です。

景行、成務、仲哀、神功皇后、応神、仁徳、6代にわたって、大王家に仕えています。

およそ300歳まで生きたとか………

 

こうなると、「ずっとお爺さん」ではなくて、「歳をとらなかった」(見た目が若いまま)人物と、妄想したくなるのがひとの常♪( ´▽`)

成務天皇(稚足彦のスメラミコト)と同年同日生まれという説もあり、重用されました。

 

そして、成務天皇は書記を見る限り在位期間が短く(5年以降の記述がない)、おそらく男の実子がいなかった(いたとしても、母の身分が低く皇位継承に値する皇子として認められていなかった)

よって、甥の仲哀天皇日本武尊の子)が即位します。

 

成務天皇崩御から仲哀天皇即位まで、期間が短いので、揉めたことはなかったようですが、この間の武内宿禰の"変化"が気になりますね〜

 

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ヤマトタケルと景行天皇

ヤマトタケル日本武尊、倭建)は景行天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)の皇子です。本名を小碓命(をうすのみこと)。

ちなみに、双子で、兄のほうは大碓命(おほうすのみこと)といいます。

 

古事記熊襲蝦夷平定の物語がとくに知られていて、父天皇に命じられ、東奔西走するさまが、ことに哀れを誘うのですが、日本書紀を読んでいたら、ぜんぜんイメージちがったので、びっくりしました。

 

古事記では、景行天皇小碓命の勇猛さを怖れて、命を遠ざけるために地方につかわした、と記されています。

が、書記では、そういう景行天皇の心情はまったく触れられておらず、ヤマトタケルを後継者と見定め、自分の手足のごとく、派遣しています。タケルが大和にもどる途中で亡くなると、非常に悲しんでいます(地方に出ている間も、毎日そわそわしちゃって落ち着かなかったらしい景行天皇

この扱いの差はどういうこと?とおもっていたところ、岩波文庫の補注にやはり言及されていました。

 

それによると、日本書紀国史であるという性格からして、書紀は、王権による辺境民の征服物語として編集されたのであろう、古事記のほうが実際に伝承された物語を反映させている、ということらしいです。

つまり、古事記のほうが「本当」ということ。

 

わたしは、古事記のほうを先に読んでいたので、父に疎まれつつ、それでも父を慕わずにはいられないヤマトタケルに惹かれてしまいます。

もっとも、書紀のほうの相思相愛?の父子も、決して悪くはない…

 

女装したり、熊襲建に酒宴の席で身体をまさぐられたり、出雲建と一緒に川で水浴びしたりと妖しいエピソードに事欠かないヤマトタケルですが、盲点は父子関係なんだよ〜!とちょっとアピールしておきます♪( ´▽`)

 

厳媛

神武天皇、即位前紀戊午年九月条、

日向の高天原に降り立った皇孫は、大和の地に入りいよいよ、まつろわぬ者どもを討とうとします。天神(あまつかみ)に祈ったところ、天香山の土を取ってきて厳瓮(いつへ:聖なる酒を入れる土器)をつくり、天つ神国つ神を祀れ、というので、部下を老父老嫗に変装させて敵の支配地にある天香山に遣わました。

 

時に道臣命(みちのおみのみこと)に勅すらく、「今高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)を以て、朕(われ)親ら顕斎(うつしいはひ)を作さむ。汝を用て斎主(いはひのうし)として、授くるに厳媛(いつひめ)の号(な)を以てせむ」

 


道臣命は、大伴氏の祖、日臣命を指すようです。
厳(いつ)は、斎くのことですから、神を祀る巫が厳媛。
「ひめ」と呼んでいるということは、もともと女性が担うようになっていたのでしょう。そのため、男を斎主にする場合でも、称号は変えなかったようですね。
また、平時は男装でも、祭祀のときは女装したのではないでしょうか。
書紀注釈では、戦の最中だったために側近に代替させたとありますが…

神武天皇からの信任も厚く、警護を任されたと言われています(伝説です)
古代史的には大伴氏は軍事を司る氏で、物部氏とともに大連として権勢があり、近衛兵的な役割を果たしていたようです。

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外での昼寝

ある歴史の本を読んでいたら(ヨーロッパの)、おもしろいこと書いてたんですね。

イタリアだかどこかのゲルマン人の王さま(族長ってかんじか)が、遠出をしたとき昼寝をしたくなった、と。
それで、森の中なのか、野原なのかどうかわかりませんが、外で昼寝をしました、と。

その昼寝の仕方というのがヘンで、家臣の膝を枕にして寝たんだって、先生!

あー、そういう使いかた?もあるのかと、感心してしまった。
気を許してないとできないよなあ、寝てたらばっさり殺られるかもしれないし…

「お前の膝をかせ」とでも言ったんでしょうか。
それとも「私の膝でよければ」と家臣が申し出たのか。

ローマ帝国崩壊後、ゲルマン人がイタリアにもなだれ込んで、それでできた王国らしい。ゲルマン人ってけっこうそういう趣味のひとが多かったとかなんとか、聞いたことがあります。たぶん塩野さんの本で読みました。

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先生が好きすぎる件

世に先生好きは多けれど、伊能忠敬ほど先生が好きだったひとはいないかもしれません。

伊能忠敬五十歳(満年齢)のとき、三十一歳だった幕府天文方高橋至時(よしとき)に入門、測量、天文学を学ぶ。
十九歳ちがいだから、当時としては親子ほどの年齢差です。


その先生にもとで、測量技術を身につけた忠敬は、蝦夷地、東日本の測量に着手。
その出来のよさに注目した幕府によって全国の測量を命じられるわけですが、残念なことに至時は四十歳で病没してしまいます。

敬愛する師が亡くなったあと、忠敬は毎朝、至時が葬られている江戸の源空寺の方角に向かって、祈ったということです(wiki参照)

そして、自身が天寿を全うする折は、師の横に墓を建てるよう遺言(実家の佐原には爪と髪を埋葬)

並大抵の先生好きではありません。
長年やりたかったことを叶えてくれた師の側に、あの世でも居続けたかったのでしょう。

上野の源空寺にお参りしたくなりました。

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