神功皇后

神功皇后仲哀天皇の皇后(きさき)ですが、日本書紀を読むかぎり、あきらかに「天皇」のあつかいです。
書紀編者は、魏志倭人伝卑弥呼神功皇后とみなして、摂政年紀を定めています。
他の天皇の記載と比べてみても、単なる皇后だったとはおもえません。

そして、記述のメインは新羅征伐ですが、神功皇后が非常に勇ましく立派に描かれてます。
古事記の倭建命よりカッコいいかもしれません。

神功皇后の名は、「気長足姫尊」(おきながたらしひめのみこと)。
当時中国の正史では7世紀初頭の天皇(スメラミコト)を「タラシヒコ」と記したことから、日本では当時皇位にある者を「タラシヒコ」と呼び習わしたらしいと、注釈にありました。
つまり女性の皇位継承者が「タラシヒメ」、つまり神功皇后は実質皇位にあったと書紀編纂者はかんがえていた、とおもわれます。


開化天皇のひ孫の子の娘なので、系譜上は天皇家の血を引いています。
しかし、開化天皇自体の実在性が疑問視されるため、神功皇后奈良時代の女帝のような皇位継承権(父系で天皇家の血を引いている)があったとは、ちょっとかんがえにくいです。

そのため、父系で貫かれる皇位継承者にはできなかったのかもしれません。

 

子どもの応神天皇は、実在性が確実視されています。

その応神天皇の出生について、書紀を読んだだけでも、素直に父仲哀天皇だとはおもえません。

仲哀天皇九年二月に、天皇崩御。九月に産月となり皇后鎮懐石を腰に纏う。十二月に応神生誕。

鎮懐石の効果は絶大のようですが、応神の父はたぶん仲哀天皇ではないでしょう。
皇后の側近・武内宿禰だとする説もあるようです。

 

とすると、応神天皇が自分の皇位にハクづけするために、母の系譜を皇統に結びつけたとする説も浮かんできます。

いずれにせよ、神功皇后応神天皇の世代で、皇位継承に劇的な変化があったとかんがえるのが妥当です。

 

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